【手塚治虫を読む】その13 「フィルムは生きている」レビュー
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アニメ映画を題材にしたマンガです
この「フィルムは生きている」は、昭和33年~34年にかけて中1コース~中2コースに連載された中篇漫画です。全1巻です。
初めて読んだのは、小学6年生僕が11歳の頃です=昭和43年です。
「手塚治虫全集」(小学館コミックス発行)で。当時240円消費税のない時代でした。
ディズニーに憧れた手塚治虫
デイズニーの傑作アニメ映画「ファンタジア」が1940年(昭和15年)、「ダンボ」が1941年(昭和16年)、「バンビ」が1942年(昭和17年)のこと。
日本はまだ戦時下です。
「バンビ」は手塚が戦後の1951年5月26日、日本公開されるや、手塚さんは劇場の近くの安宿を取って1日7回の上映を何日も朝から晩まで見続けたといいます。
では手塚先生は当時、『バンビ』をどんな様子で鑑賞していたのか。前出のエッセイの続きを紹介しよう。
「最初の森のたたずまいのマルチ・シーンや、バンビの決闘のアクション・シーンなんかは、ハーハー溜め息をついて見た。ついにはクルリとうしろを向いて、お客の顔ばかり見るのであった。名場面が出てもお客の表情にさして反応がないと、「けしからん、これほどのシーンに感動もせんとは、あきれ果てた奴らだ、この俗物どもめ」と勝手に憤慨し、ギャグにお客が笑いころげると「そうだろう、そうだろう。やはりここは秀逸なギャグだわい」と、ひとりで喜んでいたのだ」(前出「わがアニメ狂いの記」より)
うーむ、これは傍から見たら、かなりアブナい人だったのではないだろうか……。
結局、手塚先生は当時『バンビ』を80回以上も見たという。さらにその後のリバイバルも含めると、この作品を「総計百三十回以上は見たことになる」(前出「わがアニメ狂いの記」より)とのことである。
言うまでもなく、ビデオなんてない時代のことですからね。恐ろしい数ですよ、これは。
それだけ手塚治虫さんはマンガ映画に憧れたんです。
少年の琴線に触れる物語展開
素直になんでも取り入れられる感受性豊かな時期ですから、だからとても入りやすかったんでしょう、単純に「これは傑作」と思ってしまいました。
今読んだら傑作ではない、という意味ではありません。当てられた読者年齢に近かったということがきっととても大きかったのでしょう。
なぜか中学生なのにマンガ修業をし、アニメ映画まで監督してしまうのですから、すごい話ですよね。
漫画家からアニメ作家を目指す、宮本武蔵と佐々木小次郎の対決物語です。
このシーンはラスト近く、それぞれが作った長編アニメ映画が同日公開をするその朝のシーンです。
巌流島の決闘になぞらえて、シーンとエピソードを作っています。
当時はこれが僕には斬新でした。
昭和34年頃のアニメ映画の勢力図です。
アメリカのディズニー系が物凄い勢いであったことが分かります。
カラー画面がキレイで、とても丁寧です。
アニメ映画への夢
その後「白雪姫」や「バンビ」に触発され、丁度この頃東映で手塚治虫氏らが参加して長編アニメ映画が日本でも作られだした頃なんです。
テレビの「鉄腕アトム」放映はまだまだ先のことです。
下地になっているのは、武蔵と小次郎の物語ですが、このくだりは、ベートーベンのエピソードなども出てきます。
武蔵は、目が見えないアニメーターになってしまうのです。
耳の聞こえない作曲家ベートーベンの悲劇のように。
それでも長編アニメ映画を作りたい・・・手塚さんのその頃の想いが噴き出している漫画です。エネルギーが溢れています。
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